TON インフルエンザウイルス説
世間一般では多くの野獣先輩新説がたてられる中、本説では彼の身近な人物、遠野について、彼がインフルエンザウイルスなのではないかという説について検証していく。
早速ではあるが、いくつか根拠を挙げていきたい。
根拠① 屋上での日光浴
ウイルスは高温多湿下では増殖しにくい。野獣先輩は感染予防のために屋上で焼いている。
しかし、「四章は純愛!そんなはずがない!」という反論があるだろう。これについては後ほど、改めて検討することとして次の根拠へと移る。
根拠② アイスティーへの投薬
そもそもウイルスに睡眠薬……?と思う方々も多いかもしれない。しかし、そもそもそれは思い込みである。
野獣先輩がここでサーッ!と迫真の形相で注ぎこんだものは睡眠薬でなく、後ほど再び出てくるが、インフルエンザといえばあの薬、そうタミフルである。
だが、一体ウイルスがどうやってそれを飲めるのだろうか?ここで一度思い返してみて欲しい。野獣先輩がちょこざい細工を施している場面に遠野は映されていただろうか。
つまり、屋上とキッチンとは、野獣邸という空間の中に並置されているのではなく、内と外の関係、要するに心象と現実という関係にあり、互いに直接干渉はしていないのである。
これまでのことを踏まえると、野獣先輩は実在のキッチンにおいて、わざわざアイスティーに粉薬を溶かすという手間のかかる上に苦みをふんだんに味わえるデメリットしかない方法で薬を飲んでいるさまを(この様子は写されてはいないが)、インフルエンザウイルス=遠野へタミフルが溶かされたグラスを渡す比喩によって表現していると言える。
根拠③「タミフルさん!?ちょっと、まずいですよ!」
これについて詳しい説明は不要だろう。これに続いて野獣先輩が「暴れるな……暴れるなよ……」と言っているのも決定的である。
根拠④ 世界レベル
遠野は世界レベルである。
インフルエンザも世界的に流行している。
さて、以上4つの根拠を挙げたが反論は多々あるだろう。とりわけ「四章が純愛である」という通説によるもの、また遠野がウイルスであることが分かっていながらなぜわざわざ野獣先輩は彼を家に招き入れたのかは未だ不明瞭である。
前者については、そもそも四章は純愛であったのか?という疑問がある。
この通説を覆すためにも、まずは後者の反論に対して、なぜ野獣先輩が遠野を招き入れ、また大胆な告白さえをもしたのか説明していくこととする。
根拠⑤ われわれのウイルスに対する態度について
パンデミック下にある昨今、われわれの日常は大きく変容し、感染症の恐ろしさを改めて思い知らされることとなっているが、それはあくまで未知のウイルスに対しての話であって、人類の文明の進歩によって対処可能となったものについては必ずしもそうであるとは言えない。そしてそれが顕著なものの一つがインフルエンザウイルスであろう。
本題に戻るが、野獣先輩と遠野が共に存在しているのは心象の方であることはすでに示している。つまり、ここでの遠野に対する先輩の態度は、現実における彼の病原体に対する態度であるということになる。
われわれはウイルスを歓迎するのか、と思われるだろう。しかし、われわれは学校や職場など、たとえ流行り病にかかってでも行きたくないと思ったことはないだろうか。
野獣先輩の遠野に対するあの寛容な態度は、そうした拒否感を表したものなのである。これは「練習きつかったねー」と溢していることからも明らかである。
とはいえ本心は罹患したかったわけではない。あくまで招き入れる態度があっただけであり、疲弊した野獣先輩の隙につけこんで遠野が侵入してきただけなのである。
それゆえ、根拠①の矛盾点についても説明がつく。
われわれはなんらかに罹りたいと思う反面、それの初症状が出始めるや否や(もはや無駄であるのに)感染予防を始めたりはしないだろうか。
遠野を家に招き入れるやいなや、現実世界の野獣の体調には異変が生じ、部屋の温度を高めようと暖房器具を使い、湿度を上げるよう努めた。それがあの心象世界での日光浴なのである。
それから薬を飲み、眠りにつくこととなる。
心象世界における昏睡レイプはウイルスへの抵抗の表れであるといえる。
しかし、ではなぜ「お前のことが好きだったんだよ!」などと彼はのたまったのだろうか。
これについても、われわれのウイルスへの態度から説明が可能である。
先ほど述べたように野獣先輩は現実への逃避ゆえに感染症へと罹ることを望んでいた。しかし、いざそれの症状が出ると苦しく、抵抗せざるを得なくなった。
そのため、薬を飲み、安静にしていた。それが功を奏し体調は回復していった。
「お前のことが好きだったんだよ!」は、ウイルスの猛攻が収まり体調が平穏を取り戻しつつある中、不意にわれわれの頭をよぎる苦しい日常への帰還を惜しんで発せられた告白なのである。この告白は通常、秘めてきた思いを明らかにしたものだと解されているが、実際はそうではなく、望みながらも自ら葬り去った、その別れを惜しんで発せられた、いわば惜別の言葉なのである。
出席停止期間が定められているように、体調が回復したとはいえウイルスはまだ体内に残留している。幸せなキスは、遠野との別れを表しているのである。
以上、5つの根拠から、遠野はインフルエンザウイルスであり、4章は純愛ではなく打算愛の物語で、野獣先輩の心象世界の物語である。
(ガバガバ)アナルグラムもやらなければならない。
だが飽きたのでこれにてQ. E. D. (証明完了)
ワンコイン握り寿司のパラドックス
ブログの方向性が決まらないと悩んでいたのですが、別に気軽に好きなこと綴ればいいのでは?
と最近ようやく気付きました、しょうがです。
とはいえ覚悟せず読むとショックを受けるようなものもありそうなのでそういった際には【閲覧注意】とか付したいと思います。
今回の話題に入りますが行きつけのスーパーには平日限定で「ワンコイン握り寿司」(税抜500円)というものが販売されます。
税込だと540円で早くも「ワンコイン」とは矛盾しているのですが、税抜価格もともに商品情報として提示されていることを考えればさほど大きな問題ではないです。
さて、スーパー、そして寿司、つまりは総菜とくれば、資本主義にあえぎ苦しんでいる方々ならもう想像がつくでしょう。そう、値引きがなされるわけです。
各スーパーによって異なるとは思われるのですが値引きは段階を経てなされます。
1割引、2割引、3割引……あれ、今何時だっけ?と細かく値切るスーパーもあれば2割引いたら次には半額ドーン!(実際にシールを貼る効果音としてドーン!とはなりません)するところもあります。とはいえ、この頻度はさほど問題ではありません。
ここでワンコイン寿司に戻りますが、これが値引きされた場合どうなるでしょうか。
1割引で450円(486円)、2割引で400円(432円)……半額で250円(270円)
もうお分かりでしょうか?お分かりですよね?(圧力)
「ワンコイン寿司」は値引かれると半額ではなくなる
皆さまが半額にされた時に買うそれはワンコイン握り寿司でありながらワンコインではないわけです。
このことを私は「ワンコイン握り寿司のパラドックス」と呼ぶことにしました。
パラドックスな寿司、『パラドック寿司』
(????????????????)
この可哀想な寿司も8割引になったところを狙えばその固有性が保たれるわけです。
しかし、現実問題として8割まで引いてくれる店はあるのでしょうか?
もっと言えば半額になったその時点ですでに売れ残るということは、特に寿司となれば考えにくいわけですが、そんなこと知ったこっちゃありません。
昨今は、スーパーでワンコイン名義の商品に半額シールを貼ってアイデンティティを喪失させることだけが私の生きがいです
アンガーマネジメント
ブログの躁鬱の波が激しい!
どうも、しょうがです。
今回はアンガーマネジメントという題です。
ネタバレしておきますがタイトルガン無視してます。
これを読み終わえて、あなたが知り得ていることの中にアンガーマネジメントは入っていません。
さて皆様、日々怒りを感じていますか?
そしてそれをどのように処理していますでしょうか?
怒りと言う感情は人間が最も感じやすく、そして最も表現しやすいものなのではないかと、私は考えています。
そして、それゆえにその感情を煽って操ろうとするような輩がわんさかといるのだろうと思われます。
(Twitterとかにもよくいますよね)
そんな彼、彼女らに扇動されていていいのか?
どう思うかは人それぞれですが私は自分の怒りくらいは自分で決めたいと思います。
だからこそ、怒りをコントロールしていかなければならないのではないか、とも思うわけです。
しかし、昨今は時世も相まって世界に怒りを感じることが増えてしまっているように思われます。
コロナ禍という現実はもちろんながら、それと運悪く重なってしまった遠いところへの居住地の変更、思い出に染み付いた不織布のニオイ、アルバイト、劣等感、俺が出ていくタイミングでG系ラーメン屋と家系ラーメン屋が新たに出来る前居住地、俺が移住してきた年に限って降り出す数年ぶりの豪雪、キムチ牛丼頼んだらキムチを切らしてた1月のすき家(雪の影響もあったのかもしれない)、後期の課題全部仕上げて舞い上がってた2月のある日に逝った8畳の部屋のシーリングライト(無料でLEDライトに変えていただけたが蛍光灯とその代金2,500円は無駄になった)、低トータル譜面、2○Another、★4Liberte(一生逆ボしてる、クソ)、ルーレットに5,000円入れる音ゲーの解禁イベント(ゲーセン行く頻度減ってるのにマジで辛い)……などなど数えだしたらキリがありません。
そんなストレス過多な現代社会の中で私がどのように怒りをコントロールしているのか。
以下では、私が(稀に)行うストレス発散法を紹介していきたいと思います。
では、手順を追って説明していきます。
①スーパーの広告をチェックする
(※この過程は省略可能)
省略可能なのは別に特売日でなくとも問題ないからです。でもなるべく安く買えた方が精神的には良いです。
西〇とかだと豚肩ロースのブロックなんかはこれよりも安価に購入できるはずです。
②タコ紐等で結ぶ
逆撫を使われた……
で、これを縛っていき……は?
長さが違いすぎんだろ……
縛ったものがこちら。
フォークでめった刺しにして殺す(ネットミームしか喋れない)
③焼き目をつけていく
ジュウジュウにしてやるからな~(ネットミームでしか)
23にもなってまで語録でしか話せないの、あまりに薄っぺらい人生すぎる。
TOP〇ALUのナッツ系おつまみくらい中身がない。
④煮込んでいく
まずは煮汁を用意していきます。
実はフライパンで肉の表面を焼きながら鍋で煮汁を沸かしておくのが本来良いはずなのですが……
洗い物を増やすのが面倒なので鍋で肉を焼き、それを取り出して軽く鍋の油をふき取ってから煮汁を温めていくという方法を取ってます。
煮汁の材料です
・水200ml
・酒100ml
・醤油大さじ4
・砂糖大さじ1.5
ネギの青い部分、にんにく、しょうが(これ私?)もぶち込んでいきましょう~
にんにくは使い道が結構あるから家にあっても問題ないのですが、しょうがって活躍させてあげられなくて残ったまま放置して……なんてことが多々あるのでチューブのものを使ってます。
しょうが(根菜類)もろくに扱えないしょうが(人名)に価値は果たしてあるのでしょうか?
ここには植物に対して人間を優位に置こうとする前提条件が介在しており、この点ではやはり自分もまた人間中心主義から脱することの出来ない弱い人間であることを痛感させられてしまいます。
そもそも、親子丼を生命倫理丼~(笑)とか言って揶揄してるやつに良識が備わっているわけないんだよな……
うわ、なんかバッド入ってきたな、やめようこの話
中火で煮立たせます。
ふつふつとしてきたら蓋をして弱火で60分煮込みます。
さて、1度肉を裏返しに来る必要があるので30分後に再び様子を見に来ようと思います。
あ、そうだ。そういえば最近流行り?のブルーアーカイブというゲームがあるじゃないですか?
実は……はまってしまいました。
セリカとカヨコとジュンコ、ノノミ、ホシノ先輩辺りが好きです。
ジュンコ……たらふく食え……
好き……春の陽射しが射し込む教室で一緒にお昼寝したい
いつもの私
レッドブル値下げされてから毎日のように飲んでる。
そういえばセリカのメモリアルロビーで感極まってちょっと泣きました。
今日も推しが可愛くて最高だな!
あっ、30分経ちましたね。
……ここからさらに色々と気持ち悪いことを書いていこうと思っていたんですけどめんどくさいんで時間を加速させます。
──7日後
肉が消滅して世界が誕生したので今日はお休みです。
今日から私が神です。
~完~
まあ、俺の人生は何億年あったって一生未完だけど(笑)
心にぽっかり空き続けている穴はどう埋めればいいんだ。人生バッドハマり、足易すら点かない。
……ごめんなさい、時間を戻しましょうか。
⑤冷ます
煮込みはじめてから60分後の地点まで戻ってこれました。
そしてここまで来たらもう後はウイニングランですよ。皆伝合格おめでとう!
IとXronièrはラストが本番です(4の時にそれぞれの回で98%、99%落ちしているので)
⑥完成!!!
言うほど美味しそうに見えない……
お前はいつもそうだ、〆で全部台無しにしやがる
この肉塊はお前そのものだ、怠惰で肥やされた惨めなお前の人生そのものだ!
クソがッッッ………………!!!!!!
あっ、でも味はよしって感じです。普通に美味しいな。
うん、じゃあいいでしょう!
「終わり」ならぬ
お味よければすべてよし!
って感じですね。(は?)
いかがですか?これがアンガーマネジメントですよ。(は?)
あ、切るときは食べる分だけ切ると良いですよ。
残りはラップにくるんで冷蔵庫にぶち込んでおきましょう。
お酒のおつまみとしても最高ですし、ラーメンの付け合わせにしてもいいかもしれません。
あとブロック状に切ってチャーハンにしちゃうのもいいかも……ちょうどネギの白い部分も残っていることですし……
そんなわけで5日間くらいはこのチャーシューさんと一緒に過ごしたいと思います。
それでは~
人の形をしただけにすぎない「なにか」
俺は一体何なのだろうか、どうして生きていられるのだろうか。
結局、俺は自分が何者かとして定義されず地に足着けない浮遊した状態をただ厭って「オタク」なんてものを自称している、そんな人にもなれない何かに過ぎないんじゃないだろうかとうすうす気づいている。
Twitterだといわゆるそうしたオタクと呼ばれるような人々との繋がりが多いのだけども、そんなTLを眺めていると誰もが様々に自分の好きについて呟いているし何年もずっと同じコンテンツを追っかけている人だって多く見かける。
当然その中にはどこかでは「虚無」と呼ばれているような目先の、かつてはアングラだったような娯楽に興じてはそれを転々とするような”人間”もいるのだろうけど俺はもはや人の言葉で定義されるような虚無にすらなりえてはいないように感じている。ヒトのなり損ないが言葉で定義されるなんてことはありえないのだから。
オタクだろうがそうでなかろうが人間なんてものはほとんどが自覚してるにせよ無自覚にせよなにか生きがいのようなものを持っていてそれのために日々労働に勤しんでいるしもしくは労働それ自体が生きがいだという人間もいる。
(現代ほど娯楽であふれかえっていない時代であれば後者の方が多く、また労働の持つ価値も今とは全く異なっていたのだろうと考えてはいるのだけど)
そんなものがない俺は人生の大半をそんな労働に費やしてまで生命を維持をしていたくはないと思ってしまう。
……なんてことを言いながら実は再受験をしているし無事にモラトリアムを引き延ばしている。これは大きな矛盾だ。
そして結局それの行き着く先も26歳文系学部卒という市場価値すらない”なにか”なのだ。
なぜ今も俺はこうして生きてしまっているのだろうか。
それは死ねないからという理由に他ならないのだが、では一体、生きがいに変わって俺を支えているものは何なのか。
それは劣等感であり、嫉妬であり、怒りであり、侮蔑であって自己嫌悪でしかないのだと、”今は”そう思っている。
そしてそれらは思春期と呼ばれる時期には乗り越えているべきであったものだ。
結局俺は青年と定義されているそれにもなりきれず、かといってもうすぐ23年目を迎えようとしている自分の人生を考慮すれば子どもとは呼べない、しかし大人でもない、そんな何にもなりきれない、中身を伴わないひたすら空っぽで己の積み上げた負の遺産だけで世界の全てを憎み厭いながら生き永らえてるバケモノのようなそれでしかない。
人間と世界の全てを厭って呪詛を吐くことしか出来ない自分がこの先苦しまずに生きていくには自身が望む高尚な生き方をするか、もしくはそうした呪うことしか出来ない自分を受け容れて愛していくしか術がないのだが、望んでいる生き方をするには何よりもまず自分を愛するしか方法がないのだ。
その術を知らない死にきれない、しかし生きることもできない俺はここまで書いてきたくだらない文字の羅列に込められた思いを今日も明日もたった4文字の「死にたい」という言葉に託して、呪詛を吐くかのようにTwitterなんて言うくだらないツールのTL上で吐き出す。
ってまあ、このブログ記事も呪いでしかないのだけどな。
これを読んで何か感じてしまった愚か者がいたとして「分かる……」なんて意味のない文字を並べるのだったらさっさと動いて何かになれよ、虚無にすらなれてない何かに共感してる暇なんか絶望に切れ間が見えて光が差し込んでいるお前の人生には必要ないだろうがよ。
斜に構え続けてきたせいでその希望の光を愚直につかもうと努めることさえもしなくなってしまった俺みたいななにかにはどうかならないでください。
これ酒に酔って書いてるから明日には消えてるかもしれない。書いたことすらも忘れてるかもしれないけど。保険かけて去りたい。
まあいいや、おやすみなさい
枕が変わると寝られない、じゃあトイレが変わったら……?
テンションの高低差が激しい、情緒不安定か?(情緒不安定です)
どうも、しょうがです
Twitterの方では色々言っているので知っている方も多いとは思うのですが今は新潟で22歳大学1年生(文系)やっています、就職先がねえぜ…
ところで、最近は毎日元気にブリブリうんちしてるのですが実は梅雨真っただ中の7月末期あたり3日くらいうんこが出ないことがあって焦りました
去年なんて毎日のように「うんち漏らした」ツイートをしていたし現に一度家の外で漏らしてる(前記事参照)のですが、引っ越してからというもの3日うんこ出ずの期間を除いてもうんこ頻度がめっきり減ったように思われます
と言うことで今回はうんこが出にくくなった原因を考察していく記事となります
どうぞ、よろしくお願いします
原因①:生活環境の変化
これなんですが大きく変わったポイントとしては
・太平洋側から日本海側へ移ったことによる気候の変化
・2年半の半無職生活から大学生への移行と授業のオンライン化
・一番近いコンビニでも片道徒歩10分以上はかかるようになった
が挙げられます
まず1点目の気候の変化なのですが、確かにやや不安定で雨が多いような気はしなくもないですが現状4~7月の3か月住んでみた感じとしてはめちゃくちゃ不自由…となった記憶はないです
たしかに梅雨の時期に連日雨で外に出られないことに対してはかなり苛立ち感じてましたけど、関東の方もかなり長引いてた印象だったのでこれはこっちの気候に非があるわけではないと思いますね、結局梅雨の時期はどこ行ってもクソです
雨には、たとえ繁忙期でも完全週休2日制は守って欲しいところです
というわけでこれはあまり関係はなさそうですね
2点目ですが念のため軽く詳細書いておくと私は前通っていた大学で2年の前期まではちゃんと(本当か?)行っていたのですが後期から徐々にいかなくなってそこから2年休学してます
うち1年はマジの無職(バイトばっか行ってた)やっていてもう1年は再受験すると意気込んで受験勉強に取り組んでました、第1志望落ちたけど
そこから今は22歳で大1になっているわけですけども、周りとの歳の差とか考え始めたらストレスが尽きることはないのですが正直トータル値で考えたら今の方が感じているものは少ない気がします、休学期間のどこにも足を着けられない浮遊感による漠然とした不安に比べたら原因がはっきりしている今の不安の方が対処は容易なので
なにより授業がオンライン化したことによって雨の日に靴とパンツの裾をビショビショにしながら講義受ける必要がなくなったりしたのはストレス値の減少に一役買ってると思います
なのでこれもそこまで大きな要因ではなさそう
3点目に移りますが実はこれ割と大きい要因だと思います
まずコンビニ、もとい食品を取り扱っているお店へ行く頻度が減りました
これのために摂食量自体はおそらく減っていない(体重が減らないので)のですが、1日の摂食回数は減ったと思いますしこれが多少は減便にもつながっているとは考えられます
原因②:慢性的ストレス
原因①とも多少関わりがありますが、まず未だ大学生活への不安が残ってます、圧倒的にイレギュラーな存在なので…
それとは別に存在する大きなものとしては金銭面でのこうしたストレスが挙げられます
まあ、そもそも再受験して一人暮らしでっていうのにいろいろ負担してもらいながら大学通ってるなんてめちゃくちゃ恵まれてる生活なわけなんですよ、それで文句言ってるこいつ本当死んでくれねえかなって思います
(お酒飲みながらこれ書いてるので攻撃的になっています)
なのでせめて学費は自費負担しようと考えてはいたんですよね
さて、かつての居住であった東京・千葉にいた時にどんなバイトをしていたかという話をしていきたいんですけど、もろもろやってはすぐ辞めてを繰り返していたのですが一番長く続いていたのが派遣のイベントスタッフでして、でこれを再受験成功して大学行った後も春夏の長期休暇とかで関東に帰ってやって、そこで得られた給料を学費に割り当てようと思ってたんですよ
コロナでこれ全部消えて当てにしてた収入が0になりました
そもそも仕事が大分減ったって言うのもありますけど実家のある関東に帰れなくなったっていうのが大きいです(関東の案件が多いので)
まあこんな感じにマジで収入が0になってしまってどうやって学費を工面するか考えてたら病んでしまって3月には1回入学辞退を試みたりしてます(無茶行って取り消してもらいましたけど)
なんとか前期払える分は確保して今は無事に2退になることなくそれを終えているわけですが、いまいちこうした不安がぬぐい切れず慢性的ストレスと化してます
とはいえこれに関しては最近バイト申し込み等色々やって希望の光が見え始めているので少し緩和され始めてますし前述の事項とも関わりますが原因がはっきりしているストレスなのでまだ対処のしようがあります
そうはいってもやはり胃腸の調子を悪化させてるのに一役買ってそうですが…
ここまで挙げてきたものを考えるとむしろうんこ頻度が減ったのは健康になった証なのではないかとさえ思えてしまいますが、正直なところ腸に溜まったうんこが出せない感覚が残っているわけなんですよ
というわけで原因3つ目を考えて行きたいと思います……
原因③:トイレ環境が変わった
トイレってすごいと思いませんか?人類の排泄物なら何でも受け止めてくれるんですよ?抱擁の具現化か?
多分人類が滅んだ後に排泄を行わない知的生命体がそれを発見したら議論が巻き起こると思いますよ、それが何のためにあったのか、と
もしかしたらデュシャンでなく我々の方が特別な扱いをされるような未来があるかもしれませんね、その時に私たちはいないけども
ところで今住んでいるのは3月に検討して物件の隣の物件なんですよね
なぜか?物件見学させていただいたときにこっちの物件はトイレが温便座だったからです
知っている方は知っていると思いますが、私はトイレ環境にめちゃくちゃにこだわります
(最近はコロナのせいで変な潔癖発症して家以外でうんこすることが躊躇われちゃっているのですが…)
ここでいくつか条件を挙げてみると
・洋式か
和式の方がうんこしやすいと思うんですけども衣類がうんこと接触するんじゃないかって言う恐怖があって無理、あと長期戦に持ち込まれたときに疲労感がやばい
・温便座であるか
これに異論唱える人間、冷蔵庫の中でうんこしてろ
・くさくないか
外で排泄おこなうときに一番気にする点
家でもブルーレットのにおいにこだわってます、私のうんこと相性の悪いタイプのニオイって少なからずあるので
・個室内が広いか
後述するものに関わってます
・便器が浅くないか
前から手突っ込んでケツ拭くタイプの人間だから底に手の甲が触れるのめっちゃ嫌
…などなど様々ありますがこの中でも便器が浅い以外は特に難点ないんですよ
じゃあこれに加えて何が不満なのか、それは
・便座が狭い
・便座が薄い
の2点です
実はこれ以前までの自宅のトイレではなかったことだったんですよね
便座が狭い点から説明すると、私はまあ太っているのですが、そこそこ、というか大分横に広い体型をしているので便座が狭いと肉が圧迫されてうんこが上手く出せないような感じがして嫌なんですよ
で、太っている点と関係してくるのですけども便座が薄いと私の体重のせいでそれが歪曲するんですよ、それがなんか破壊行為に繋がってしまいそうに思えて常に恐怖と隣り合わせで排便してます
個室の広さもここに関わってきます
……といったように今までとはトイレ環境が大きく変わってしまったことが原因でトイレへ赴く意欲が大きくそがれてしまったというのが大きな原因であると思われます
おわりに
以上色々述べてきましたがようやくタイトル回収と行きましょう
「トイレが変わるとクソが出ない」
物件のトイレ選びがいかに大事かがよくわかる件でした
これが皆様の物件選びの際の参考になればと思います(なるわけない)
それではまたどこかで会いましょう
蛹化願望
夜は自分との対話の時間だ。
日々の生活の中で幾重にも皮をかぶっている私にとっては夜を歩くことは脱皮のようなもので、それは作られた自分の破壊であり、自分からの逃亡である。
皮を剥いで見えるものはきっと自分の根源に近いものであるはずだ。しかしそれが必ずしも美しいものであるとは限らない。皮に包まれ見えなくなっていた己の醜悪な部分が明らかになってしまうこともあるだろう。
そうだとしても何層にもなり重量を持った”皮”を脱ぐことは身体を、精神をひどく軽くしてくれる。
そのせいで今日もまた未だ履きなれないスニーカーで地を蹴り上げ宙を跳ぶ、浮遊時間は1秒にも満たないが一時的に地球との接続が途絶えたような気分がしてたいへん気分がいい。
目的地のないこの旅は感情の赴くままに私の身体を運んでくれる。
他者の介入しない夜という時間は私の感情が支配する時間なのだ。
さて、ここまで書いて気付く、私を形作るものは他者であると。
家を飛び出し闇へ足を向けるのはたいていは眠れない夜のことなのだが、そんな日には後悔や不安などが誰かの顔となって付き纏う。そしてそこに映る顔は私がよく知っている者たちの顔なのだ。つまり今”私”を形成している諸要素の一つに今まで関わってきた人々が在る。
浮かび上がった顔にはそれぞれ思い出が付随し、一度浮かべば記憶の中にあった情景やにおいが、喫食している思い出があるならば味なども鮮明に蘇ってくるし抑圧の記憶であれば当時の感情も同じ有様だ。
私において頻繁に蘇るのは後悔や羞恥などが付き纏うそれらであるが、しかし当然良きものとして保管されているものもふとあらわれるときがある。
こうして蘇った良い悪い双方の思い出によって私は再形成されていく。
これまでは、他者との関係の中でまとってきた皮を脱ぎ捨てる自己破壊の過程でありそれへと向かう衝動の過程でもあった。しかし根源に向かおうと望めば望むほど自分にかかわりの深い誰かが顔を覗かせてくる。
誰かが顔を見せれば思い出が即座に蘇り、そしてそれが私を再構築し新たな皮となる。明日の私はこれまでのものとは違った皮を纏っている。明後日にはさらにまた違った皮が重ねられそれは日ごとに厚みを増していく。
その荷重に耐えきれなくなった時、私は再び夜の闇へ飛び出すのだ。
関わりのある他者を完全に排除した時に存在するのはきっとこれまで自覚してきた「自分」ではないのだろう。
俺にだって当然良心はある、簡単にそうした人々を切り捨てることはできない。
それでもどこかで望んでいる、完全なる自己の破壊を望んでいる。
夜の闇に身体が溶けてしまえばいい、そしたら包まれるのは皮でなく繭で、その先に生じるのはきっと羽化なのだから。
俺は今に満足できない俺を、死ぬほどにこの手で殺してやりたいのだ。
午前2時、先の暗闇
散歩とは、人生の縮図である。
今日もまた乱れた生活リズムに則って夕に寝て夜に目覚めては不完全な覚醒状態でタスクを消化し始める。
このことが進捗を産むことを困難にするのみならず、次の日に大きな支障を来すことは痛いほど分かっているのだがどうにも矯正が困難な段階まで来ている。
タスクにも様々あり目が覚め切らずとも惰性でなんとかなるものとと、自身の考えを述べよといったような惰性ではどうにもならないものがあって今日はたまたま後者のモノにとりかかっていた。
タスクなどという仰々しい表現をしているが結局は課題のことだ。
そもそも集中できるほどに目が冴えた日であっても自身を表現することや、考察を根拠立てて述べることは一筋縄では行かないのにどうして目が覚め切らない状態でそれを行うことが出来ようか、という話ではある。
行き詰まってどうにも指が動かなくなった時、決まって私は外へ出る。
心拍数がひどく上がらない程度の運動をしている時ほど思考は明瞭になり、手が止まる元凶である脳内で乱雑に散らかされた煩雑な思考のそれぞれが途端に区分けされ、時には繋がり、整理されていくからだ。
幸運にも今日は久々に雨が降っていない夜だったので、そのルーティーンに従って深夜に家を出ることとした。
俺は外を歩くときは決まって好きな歌を聴いている。
別に海風が木々を揺らす音や虫のさざめき、国道の喧騒が嫌いなわけではない。むしろそれらは記憶の中の懐かしい景色を思い起こさせるのに十分たりえるしノスタルジーを感じるには絶好の機会である。
しかしながらそれは同時に言いようもないような感情をもたらし、時に俺の心にべったりと張り付いて身動きが出来なくなってしまうことさえもある。
そうした歌を聴くのはこれらがそうした俺の言い表せない感情を歌詞として言葉へと昇華しているものがほとんどだからだ。
しかし、皮肉にもそうした”誰か”による代弁もまた時として俺を急き立て、そしてなお依然として言葉へと昇華しきれていない己の感情の存在を自覚させられてはそれを上手く記述することの出来ない無能感に自己嫌悪すらしてしまう。
だが夜の散歩となれば話は別だ。沸き上がった感情のそれぞれは人の姿が見えない夜の闇の中に溶け込むことで帯びていた熱が冷やされ、それによって俺はこれらを容易に採り込むことが出来るようになるし、それを素に言葉へ昇華することだって出来るようになる。
(ただ残念なことは、そうして形成した言葉どもは一時的にしか形を保てず、今こうしてパソコンの液晶を前にして座り、キーボードを叩いてる時には純粋に紡いだそれらのうちの10%も残っていないように感じる)
今回の日付をまたぐ散歩は何かに誘われるように、普段とは違う道へと向かっていた。
そこは大きな通りから外れた、それでも昼間なら車の交通が絶えない通りである。
この地に越してきてから日が浅いせいか、まだ未踏の地へ来たという実感は湧いていなかった。だが、見知らぬ土地の見知らぬ道を夜に一人歩いていたおかげでようやく自分がかつての居住とはひどく離れた場所へ来ていることが実感させられた。
普段聴きのナンバーを流したイヤホンを耳に着け、それをも貫通する虫たちのコンサートもまた楽しみながら、続々とバラバラに思い浮かぶ感情の言語たちを繋ぎとめていく、そんな気持ちのいい夜であった。
歩き続けていくと街路灯が途切れて眼前にはただ暗闇が広がり、しかし一方で左を見れば灯された明かりが舗装された道を照らしている、そんな分岐点に立った。
俺はそのまま直進し暗闇を突っ切ろうとした。しかし先が見えない恐怖のあまり思わず足がすくんでしまって先に進むことが出来なかった。
考えてみれば明日は平日であるため、この散歩を長引かせるわけにはいかない。なにより夜遅い時間にわざわざ暗闇を直進していくことに意義を見出せない。そう、これは合理的な判断である。そう言い聞かせながら俺は先の見える左の道へと進んだ。
その先に出ると見慣れたいつもの道へと繋がっていることが分かり、あとは言うまでもなく家へとまっすぐ向かった。
俺はこの判断をひどく後悔することとなる。
たしかに、暗闇の方へ進まずとも朝にはその道が消滅しているなどということはないし、明るいうちに再びそこへ行き、その先へ進めばいいだけの話ではある。
だがそうではない。俺が後悔しているのは言い訳がましく安全な道を選んだということであり、そしてそれが自分の人生で立ち会ってきた岐路とその際の自身の選択を表しているような気がしてひどく苛立ち、そして落胆した。
思い返してみれば今までの人生における重大な選択は怠惰に足を引きずられ言い訳がましい理屈をこねながら比較的安全なものばかりを選んできていた気がしている。
そうした妥協の積み重ねは徐々にひずみを生み出し、耐えきれないほどに膨れ上がった時にようやく顔を出す。そしてそれは大抵はもう取り返しのつかない時であったりする。今のお前がそうじゃないかと俺は俺に呪詛を吐く。
人生に妥協は必要だ。だが、時には勇猛果敢に進んでいくことも必要であると思うし、その行為こそがひずみを解消する唯一の手段なのではないかとさえ思う。
しかし今まで苦痛から逃れんと安心できる選択ばかりをしてきた俺にもはやそれを行うほどの力など残っていない。
ああ、言うなれば今回の散歩は俺の浅はかな人生をあの暗闇とは対照的に白日の下に晒すものであったのかもしれない。
どうせ暗闇の方へ足を進めていても後悔していたであろうことは容易に予測できる。
本当にそれの尽きない人生だ。
しかし、どうせ後悔するのであれば今までとは違ったそれを感じたいとも思うのだ。
俺はただ暗闇の中にあるものが知りたかった。たとえそこに何もなかったとしても”何もなかったということ”を知りたかった。
妥協だけで積み重ねられた人生だ、そんな人間がいまさら何を希求しても実りのあるものは産まれないだろう。
でもどうせならば、もう死に向かうくらいしか有意義な営みが残されていないこんな恥だらけの人生でも、一度だけでいいから暗闇の中にあるものに、そしてその先にあるものに、俺が今まで捨て去ってきたものに触れてみたいのだ。
たとえそれが多大な苦痛を伴うものであるとしても