人の形をしただけにすぎない「なにか」
俺は一体何なのだろうか、どうして生きていられるのだろうか。
結局、俺は自分が何者かとして定義されず地に足着けない浮遊した状態をただ厭って「オタク」なんてものを自称している、そんな人にもなれない何かに過ぎないんじゃないだろうかとうすうす気づいている。
Twitterだといわゆるそうしたオタクと呼ばれるような人々との繋がりが多いのだけども、そんなTLを眺めていると誰もが様々に自分の好きについて呟いているし何年もずっと同じコンテンツを追っかけている人だって多く見かける。
当然その中にはどこかでは「虚無」と呼ばれているような目先の、かつてはアングラだったような娯楽に興じてはそれを転々とするような”人間”もいるのだろうけど俺はもはや人の言葉で定義されるような虚無にすらなりえてはいないように感じている。ヒトのなり損ないが言葉で定義されるなんてことはありえないのだから。
オタクだろうがそうでなかろうが人間なんてものはほとんどが自覚してるにせよ無自覚にせよなにか生きがいのようなものを持っていてそれのために日々労働に勤しんでいるしもしくは労働それ自体が生きがいだという人間もいる。
(現代ほど娯楽であふれかえっていない時代であれば後者の方が多く、また労働の持つ価値も今とは全く異なっていたのだろうと考えてはいるのだけど)
そんなものがない俺は人生の大半をそんな労働に費やしてまで生命を維持をしていたくはないと思ってしまう。
……なんてことを言いながら実は再受験をしているし無事にモラトリアムを引き延ばしている。これは大きな矛盾だ。
そして結局それの行き着く先も26歳文系学部卒という市場価値すらない”なにか”なのだ。
なぜ今も俺はこうして生きてしまっているのだろうか。
それは死ねないからという理由に他ならないのだが、では一体、生きがいに変わって俺を支えているものは何なのか。
それは劣等感であり、嫉妬であり、怒りであり、侮蔑であって自己嫌悪でしかないのだと、”今は”そう思っている。
そしてそれらは思春期と呼ばれる時期には乗り越えているべきであったものだ。
結局俺は青年と定義されているそれにもなりきれず、かといってもうすぐ23年目を迎えようとしている自分の人生を考慮すれば子どもとは呼べない、しかし大人でもない、そんな何にもなりきれない、中身を伴わないひたすら空っぽで己の積み上げた負の遺産だけで世界の全てを憎み厭いながら生き永らえてるバケモノのようなそれでしかない。
人間と世界の全てを厭って呪詛を吐くことしか出来ない自分がこの先苦しまずに生きていくには自身が望む高尚な生き方をするか、もしくはそうした呪うことしか出来ない自分を受け容れて愛していくしか術がないのだが、望んでいる生き方をするには何よりもまず自分を愛するしか方法がないのだ。
その術を知らない死にきれない、しかし生きることもできない俺はここまで書いてきたくだらない文字の羅列に込められた思いを今日も明日もたった4文字の「死にたい」という言葉に託して、呪詛を吐くかのようにTwitterなんて言うくだらないツールのTL上で吐き出す。
ってまあ、このブログ記事も呪いでしかないのだけどな。
これを読んで何か感じてしまった愚か者がいたとして「分かる……」なんて意味のない文字を並べるのだったらさっさと動いて何かになれよ、虚無にすらなれてない何かに共感してる暇なんか絶望に切れ間が見えて光が差し込んでいるお前の人生には必要ないだろうがよ。
斜に構え続けてきたせいでその希望の光を愚直につかもうと努めることさえもしなくなってしまった俺みたいななにかにはどうかならないでください。
これ酒に酔って書いてるから明日には消えてるかもしれない。書いたことすらも忘れてるかもしれないけど。保険かけて去りたい。
まあいいや、おやすみなさい