とてもしょうがないものの集積地

つまらん世界(つまらんのは自分)

蛹化願望

夜は自分との対話の時間だ。

日々の生活の中で幾重にも皮をかぶっている私にとっては夜を歩くことは脱皮のようなもので、それは作られた自分の破壊であり、自分からの逃亡である。

皮を剥いで見えるものはきっと自分の根源に近いものであるはずだ。しかしそれが必ずしも美しいものであるとは限らない。皮に包まれ見えなくなっていた己の醜悪な部分が明らかになってしまうこともあるだろう。

そうだとしても何層にもなり重量を持った”皮”を脱ぐことは身体を、精神をひどく軽くしてくれる。

そのせいで今日もまた未だ履きなれないスニーカーで地を蹴り上げ宙を跳ぶ、浮遊時間は1秒にも満たないが一時的に地球との接続が途絶えたような気分がしてたいへん気分がいい。

目的地のないこの旅は感情の赴くままに私の身体を運んでくれる。

他者の介入しない夜という時間は私の感情が支配する時間なのだ。

 

さて、ここまで書いて気付く、私を形作るものは他者であると。

 

家を飛び出し闇へ足を向けるのはたいていは眠れない夜のことなのだが、そんな日には後悔や不安などが誰かの顔となって付き纏う。そしてそこに映る顔は私がよく知っている者たちの顔なのだ。つまり今”私”を形成している諸要素の一つに今まで関わってきた人々が在る。

浮かび上がった顔にはそれぞれ思い出が付随し、一度浮かべば記憶の中にあった情景やにおいが、喫食している思い出があるならば味なども鮮明に蘇ってくるし抑圧の記憶であれば当時の感情も同じ有様だ。

私において頻繁に蘇るのは後悔や羞恥などが付き纏うそれらであるが、しかし当然良きものとして保管されているものもふとあらわれるときがある。

こうして蘇った良い悪い双方の思い出によって私は再形成されていく。

 

これまでは、他者との関係の中でまとってきた皮を脱ぎ捨てる自己破壊の過程でありそれへと向かう衝動の過程でもあった。しかし根源に向かおうと望めば望むほど自分にかかわりの深い誰かが顔を覗かせてくる。

誰かが顔を見せれば思い出が即座に蘇り、そしてそれが私を再構築し新たな皮となる。明日の私はこれまでのものとは違った皮を纏っている。明後日にはさらにまた違った皮が重ねられそれは日ごとに厚みを増していく。

その荷重に耐えきれなくなった時、私は再び夜の闇へ飛び出すのだ。

 

関わりのある他者を完全に排除した時に存在するのはきっとこれまで自覚してきた「自分」ではないのだろう。

俺にだって当然良心はある、簡単にそうした人々を切り捨てることはできない。

それでもどこかで望んでいる、完全なる自己の破壊を望んでいる。

夜の闇に身体が溶けてしまえばいい、そしたら包まれるのは皮でなく繭で、その先に生じるのはきっと羽化なのだから。

俺は今に満足できない俺を、死ぬほどにこの手で殺してやりたいのだ。