とてもしょうがないものの集積地

つまらん世界(つまらんのは自分)

午前2時、先の暗闇

散歩とは、人生の縮図である。

 

 

今日もまた乱れた生活リズムに則って夕に寝て夜に目覚めては不完全な覚醒状態でタスクを消化し始める。

このことが進捗を産むことを困難にするのみならず、次の日に大きな支障を来すことは痛いほど分かっているのだがどうにも矯正が困難な段階まで来ている。

タスクにも様々あり目が覚め切らずとも惰性でなんとかなるものとと、自身の考えを述べよといったような惰性ではどうにもならないものがあって今日はたまたま後者のモノにとりかかっていた。

タスクなどという仰々しい表現をしているが結局は課題のことだ。

そもそも集中できるほどに目が冴えた日であっても自身を表現することや、考察を根拠立てて述べることは一筋縄では行かないのにどうして目が覚め切らない状態でそれを行うことが出来ようか、という話ではある。

行き詰まってどうにも指が動かなくなった時、決まって私は外へ出る。

心拍数がひどく上がらない程度の運動をしている時ほど思考は明瞭になり、手が止まる元凶である脳内で乱雑に散らかされた煩雑な思考のそれぞれが途端に区分けされ、時には繋がり、整理されていくからだ。

幸運にも今日は久々に雨が降っていない夜だったので、そのルーティーンに従って深夜に家を出ることとした。

 

俺は外を歩くときは決まって好きな歌を聴いている。

別に海風が木々を揺らす音や虫のさざめき、国道の喧騒が嫌いなわけではない。むしろそれらは記憶の中の懐かしい景色を思い起こさせるのに十分たりえるしノスタルジーを感じるには絶好の機会である。

しかしながらそれは同時に言いようもないような感情をもたらし、時に俺の心にべったりと張り付いて身動きが出来なくなってしまうことさえもある。

そうした歌を聴くのはこれらがそうした俺の言い表せない感情を歌詞として言葉へと昇華しているものがほとんどだからだ。

しかし、皮肉にもそうした”誰か”による代弁もまた時として俺を急き立て、そしてなお依然として言葉へと昇華しきれていない己の感情の存在を自覚させられてはそれを上手く記述することの出来ない無能感に自己嫌悪すらしてしまう。

 

だが夜の散歩となれば話は別だ。沸き上がった感情のそれぞれは人の姿が見えない夜の闇の中に溶け込むことで帯びていた熱が冷やされ、それによって俺はこれらを容易に採り込むことが出来るようになるし、それを素に言葉へ昇華することだって出来るようになる。

(ただ残念なことは、そうして形成した言葉どもは一時的にしか形を保てず、今こうしてパソコンの液晶を前にして座り、キーボードを叩いてる時には純粋に紡いだそれらのうちの10%も残っていないように感じる)

 

今回の日付をまたぐ散歩は何かに誘われるように、普段とは違う道へと向かっていた。

そこは大きな通りから外れた、それでも昼間なら車の交通が絶えない通りである。

この地に越してきてから日が浅いせいか、まだ未踏の地へ来たという実感は湧いていなかった。だが、見知らぬ土地の見知らぬ道を夜に一人歩いていたおかげでようやく自分がかつての居住とはひどく離れた場所へ来ていることが実感させられた。

普段聴きのナンバーを流したイヤホンを耳に着け、それをも貫通する虫たちのコンサートもまた楽しみながら、続々とバラバラに思い浮かぶ感情の言語たちを繋ぎとめていく、そんな気持ちのいい夜であった。

 

歩き続けていくと街路灯が途切れて眼前にはただ暗闇が広がり、しかし一方で左を見れば灯された明かりが舗装された道を照らしている、そんな分岐点に立った。

俺はそのまま直進し暗闇を突っ切ろうとした。しかし先が見えない恐怖のあまり思わず足がすくんでしまって先に進むことが出来なかった。

考えてみれば明日は平日であるため、この散歩を長引かせるわけにはいかない。なにより夜遅い時間にわざわざ暗闇を直進していくことに意義を見出せない。そう、これは合理的な判断である。そう言い聞かせながら俺は先の見える左の道へと進んだ。

その先に出ると見慣れたいつもの道へと繋がっていることが分かり、あとは言うまでもなく家へとまっすぐ向かった。

 

 

俺はこの判断をひどく後悔することとなる。

たしかに、暗闇の方へ進まずとも朝にはその道が消滅しているなどということはないし、明るいうちに再びそこへ行き、その先へ進めばいいだけの話ではある。

だがそうではない。俺が後悔しているのは言い訳がましく安全な道を選んだということであり、そしてそれが自分の人生で立ち会ってきた岐路とその際の自身の選択を表しているような気がしてひどく苛立ち、そして落胆した。

思い返してみれば今までの人生における重大な選択は怠惰に足を引きずられ言い訳がましい理屈をこねながら比較的安全なものばかりを選んできていた気がしている。

そうした妥協の積み重ねは徐々にひずみを生み出し、耐えきれないほどに膨れ上がった時にようやく顔を出す。そしてそれは大抵はもう取り返しのつかない時であったりする。今のお前がそうじゃないかと俺は俺に呪詛を吐く。

人生に妥協は必要だ。だが、時には勇猛果敢に進んでいくことも必要であると思うし、その行為こそがひずみを解消する唯一の手段なのではないかとさえ思う。

しかし今まで苦痛から逃れんと安心できる選択ばかりをしてきた俺にもはやそれを行うほどの力など残っていない。

ああ、言うなれば今回の散歩は俺の浅はかな人生をあの暗闇とは対照的に白日の下に晒すものであったのかもしれない。

 

 

どうせ暗闇の方へ足を進めていても後悔していたであろうことは容易に予測できる。

本当にそれの尽きない人生だ。

しかし、どうせ後悔するのであれば今までとは違ったそれを感じたいとも思うのだ。

 

俺はただ暗闇の中にあるものが知りたかった。たとえそこに何もなかったとしても”何もなかったということ”を知りたかった。

妥協だけで積み重ねられた人生だ、そんな人間がいまさら何を希求しても実りのあるものは産まれないだろう。

でもどうせならば、もう死に向かうくらいしか有意義な営みが残されていないこんな恥だらけの人生でも、一度だけでいいから暗闇の中にあるものに、そしてその先にあるものに、俺が今まで捨て去ってきたものに触れてみたいのだ。

たとえそれが多大な苦痛を伴うものであるとしても